2010年5月10日月曜日

「書き言葉」って言われても

単純過去はどういうときに使うのでしょうか。

単純過去は書きことばの過去で、会話では用いられませんが、複合過去は会話などもっぱら話しことばで用いられます。(数江穣治、『フランス語のABC』、新装版、白水社、203頁)
これから学ぶ直説法単純過去という時称は、文章語に多く用いられる過去の時称です。口語だけが生きたフランス語ではなく、文章語もフランス語としてまさに生きた存在です。われわれが知的にフランス文化に触れるには、欠かすことのできない時称なのです。(森本英夫・三野博司、『新・リュミエール』、新装版、駿河台出版社、311頁)
しかし、フランス語を教えるときに、このように「書きことば(文章語)」と「話しことば(口語)」の対立だけを強調してしまうと、誤解が生じる可能性なきにしもあらずです。

念のためにいっておくと、日記や手紙の中では、それがどれほど格調高いものであっても、単純過去は用いられません。そうしたものは複合過去で書かれます。

「書き言葉」、「話し言葉」に関して、もう少し慎重な言いかたをしている参考書もあります。
…単純過去は歴史的過去(le passé historique)ともいわれ、主に書き言葉で小説や物語、歴史の叙述などに用いられるのに対し、複合過去は書き言葉でも話し言葉でも幅広く用いられる。(渡辺公子、『魔法の仏文法』、駿河台出版社、205頁)
重要なのは、まさしくこうした語りのスタイルの問題、あるいは小説・物語・歴史といった文学ジャンルの問題であるはずです。

書き言葉といってもいろいろあるわけで、手紙、日記、エッセイは、複合過去で書かれますし、新聞記事も今では複合過去で書かれているのが普通です。また、学術書や論文の中で複合過去に出会うことは、きわめて普通のことです。……というか、なはずです。そういうことについて詳しく親切に記述している本は(よく知りませんが)あまり見あたりません。

ただし新聞記事というのは、けっこう微妙な問題です。
単純過去形と前過去形は、現代語では書き言葉、特に小説・物語や、歴史の記述・新聞記事の一部などでしか用いません。(石野好一、『フランス語の入門』、白水社、190頁)
「新聞記事の一部」というのは、いわゆるルポルタージュ風のものを想像すればよいのでしょうか。

『フランス語ハンドブック』(初版は1978年)では、比重のおかれかたが逆転しています。 
〔複合過去は〕ある種の報道文、時には小説の地の文でも、特殊な文体的効果を狙って使用されることがある。(改訂版、白水社、227頁)
ここでは新聞記事は複合過去ではなく単純過去を基調として書かれるものであるというのが前提になっているわけです。そして実際、例として引かれた「五月革命」についての記事(229頁)では、そのようになっている。これは思うに、つい最近までフランスの新聞記事では単純過去が主流だったということではないのか。実に興味深い問題ですが、残念ながら詳しいことは知りません。

いずれにしても、われわれが単純過去を用いて文章を書くことは非常にまれです。それは実はフランス人にとっても同じことだと思います。論文・レポートなどの中で、ある事柄についてまとまった歴史を客観的に記述しなければならなくなった時、くらいではないでしょうか。あるいは、フランス語で小説や伝記(自伝)を書く場合とか。そういうことが必要な人は、ですからあまり多くありません。それ以外のケースは、ちょっと思い浮かびません。

要するに「書き言葉」として習う単純過去ですが、実際に書き言葉として使うことはほとんどなく、われわれにとってはむしろ「読み言葉」として現れてくるべきものなわけです。

単純過去のこのような「読み言葉」としての性質から、かなりの参考書が、三人称を中心とした学習をすすめています。 石野好一、『フランス語の入門』にいたっては、活用表に三人称しか掲げていない(!) いずれにせよ、単純過去の学習には、他の時制の時とははっきり異なる戦略が必要になると思います。個人的には、すでに書いたとおり、代表として三人称単数形を覚える。これで十分だと思います。もちろん、必要なら他の人称の形を導き出せるということが前提ですが。

われわれが読書の中で単純過去の一人称に出会うのは、どういうときか。自伝、あるいは自伝的小説を読むような場合です。

では、二人称はどうか。はっきり言って、これに出会うことは皆無に等しい。単純過去の二人称で書かれた伝記、あるいは伝記的小説というものはありうるか、と先日ちょっと夢想しました。ありうるとは思いますが、そういうものが存在するという話は聞いたことがありません。(ビュトールの『心変わり』という二人称で書かれた小説がありますが、この小説の基本時制は現在のようです。)

自伝の文体の中でもつねに「私」が主語となるわけではないので、三人称以外の単純過去にわれわれが出会う確率は、総じていえば、一割にも満たないのではないでしょうか。ですから、je reçus, tu reçus, il reçut, nous reçûmes... などと覚えるのは、はっきり言って愚の骨頂です。一生に一度も出会わない可能性のある形を一生懸命暗誦しているわけですから。

あとは、単純過去と複合過去の意味の違いについて一言。

単純過去が、現在から切り離された過去を客観的に語る時制であるということはたいていの参考書に書いてあります。複合過去で語られる過去は、その反対に、現在との間に何らかの関係を保っているとされます。

初級参考書の中でこの点について詳しく触れているのは、たとえば『魔法の仏文法』です。
〔単純過去は〕現在とはつながりを持たない過去の出来事や行為を表す。まずはこの点で、過去の行為の結果である現在の状態を表す複合過去と対立する。(205頁)
この本質的違いはきわめて重要ですが、同時にフランス語初級者にはとらえがたく、単純過去=客観的、複合過去=主観的という、必ずしも正確とはいいがたい対立だけが印象に残ってしまうことも多いようです。問題はしかし、「客観」と「主観」、本来の(現在と切り離された)過去と現在完了的な(現在とつながりのある)過去との間の境界線はいったいどこにあるのか、ということです。そして、この境界線が歴史的に移動してきたということを、いちおう押さえておくことが、どうしても必要になります。
かつて複合過去形は、行為の結果が現在にまで続いていることを表していました。
他方、現在(発言の時点)とはつながりのない過去を表すのは、単純過去形という形がもっぱら受け持っていました。
ところが、日常生活(話し言葉の世界)では、過去の出来事が現在につながる現在完了的なことがらが多く、単純過去形よりも複合過去形の方が頻繁に使われるようになりました。その結果、話し言葉では、単に過去の出来事を表すときにも、この複合過去形が用いられるようになり、単純過去形は(現在とは切り離された)物語の世界や書き言葉に追いやられることになってしまいました。
そういうわけで、現在では、話し言葉では、過去の出来事を表すときに複合過去形を用いるのが普通になりました。(『フランス語の入門』、128頁)
この複合過去が単純過去の領域を徐々に浸食していくというイメージは大事だと思います。主観の領域、現在完了の領域が拡大し、客観や本来の過去の領域にまで入り込んでいったというわけです。これは「話し言葉」と「書き言葉」の間でもいえることではないでしょうか。

最後に、さっきルモンドのページからコピーしてきた一節を引用します。昨日、アイスランドの火山活動がふたたび活発化して、ヨーロッパの空の交通に混乱が生じました。空域を閉鎖した国が出たことから、フランスでも約100便が欠航になりました。(おかげでフランスから来る予定だった友達が来られなくなった。)
La première vague du nuage est passée sans encombre dimanche au-dessus de la France comme l'avait annoncé la DGAC qui a maintenu ouvert l'espace aérien français ainsi que tous les aéroports. Les cendres, dont la concentration n'était pas jugée assez importante pour "provoquer des conséquences sur le trafic aérien", ont été en partie dispersées par les pluies qui ont atteint la Loire dans la journée.
火山灰の雲の第一波は、日曜日、フランス上空を通過したが、これによる問題は生じなかった。 民間航空管理局(DGAC)はこれをあらかじめ伝えており、フランスの空域は閉鎖されず、全空港は営業を続けていた。火山灰の濃度は「空の交通に支障を来すほど」深刻なものではないとみられていたが、同日ロワール地方に降った雨のおかげでその一部は消散した。
こうした複合過去を「主観的」なり、「現在と何らかのつながりを持つ」といったように理解することは、ほとんど意味をなさないでしょう。ここでの複合過去は、単に報道文の今日における習慣として用いられているにすぎません。

過去の時制の間のそういうニュアンスが大事になるのは、実は、単純過去を用いる文体の中に複合過去が混入するようなケースです。その話は、そのうち時間があったら書きたいと思っています。

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