2009年9月22日火曜日

手の美術史

手の美術史』なる本を、森村泰昌が今年の春に出しているそうです。近所の図書館のデータ・ベースで「内容紹介」を読んでみると、「謎めく手、誘惑的な指先、痙攣する恐ろしい手…。古今の名画からモリムラ・メソッドにより厳選した約200点の『手』のクローズ・アップを掲載。作家・作品名等のデータを付した全図一覧も収録する。」面白そう。

繊細な手の表現と言えば、国際ゴシック派以来のキリスト教美術のひとつの伝統と言えるのではないでしょうか。ルーブルで見て好きだった、ブルゴーニュの画家ジャン・マルエルのピエタ。


ジャン・マルエル、「円形の大ピエタ」(1400年頃)

聖ヨハネの支える手、聖母マリアのすがる手、天使の嘆く手、そして何よりキリストの、痛めつけられ、力を失い、血を流す手。すべての登場人物の感情が、顔と同じくらい、いやそれ以上に、手によって表現される。

しかしまあ、「手」などと言い出せばきりがないでしょう、おそらく。写楽の手とか。


東洲斎写楽、「三代大谷鬼次奴江戸兵衛」

写楽はともかく、クリムトの手は、西洋絵画の伝統的な手の表現の延長にあると言えるでしょう。


クリムト、「ユディトII」(部分、1909)

アッシリアの将軍ホロフェルネスを誘惑したユダヤの美女ユディト。彼女に殺されたホロフェルネスの首が、縦長の画面の右下に見える。新潮美術文庫の解説(飯田善国)にこうあります。「おそらく寝所で情を交わしたのち、ホロフェルネスを殺した彼女は、極度の緊張と忘我と恍惚の相闘う矛盾の感情の只中にいる。乳頭は突起し、両手は激しくふるえて、彼女の内面の名状しがたい劇場的感情の起伏を見事に伝えてくれる。」そして、解説はこう続く。「手の描写、手の描写による内面感情の表現において、クリムトは当代随一であった。」

感情を表現する手という豊かな系譜がある、と。

さらに興味深いのは、装飾表現としての手。クリムトでも、個人的に面白いと思うのは、じつは「ユディトII」よりも、「アデレ・ブロッホ=バウワーの肖像」の手。もう一度新潮美術文庫の解説を読んでみると、「手の、例によって手の、なんというみごとな建築的配置!」とある。

 クリムト、「アデレ・ブロッホ=バウワーの肖像」(部分、1907)
 シーレ、「チェックの模様の布をまとい、立っている少女」(部分、1908/09)

右のシーレと比べてみると、少なくとも1910年以前に描かれたシーレの手は、明らかにこのようなクリムトのスタイルの影響下にあるのがわかる。右のシーレについての、ヴォルフガング・ゲオルグ・フィッシャーのコメント。「1907年、シーレはクリムトと知り合う。(…)1908年から1910年の間に制作されたシーレの作品、たとえば『チェックの模様の布をまとい、立っている少女』などは、尊敬する師クリムトの平面的で装飾的な様式へのオマージュである。少女の手の位置は、シーレの後の作品に見られる表現主義的な様式をすでに暗示している。」クリムトの装飾的な様式に倣いながら描かれた、しかし同時に、来るべきスタイルを予告してもいる手。

1910年以降、表現主義的スタイルへの移行によって、シーレはクリムトの影響から離れていく。そして、謎めいた手が現れる。


シーレ、「隠者たち」(1912)

右はクリムト、左はシーレ。シーレの右手にご注目を。感情表現でも、装飾効果をねらったものでもない、符丁のような、目配せのような手。


2009年9月21日月曜日

シーレの手


「自画像」(1911)

今回の展覧会のチラシにも使われている「自画像」。自己の表象、多重人格のテーマなど、内面的な分析はさておき、画面全体の構成が面白い。クリムトについてもすでに言えることだが、人間の顔以外の部分を装飾平面と化した背景に溶け込ませる、大胆な様式化。はっきりと具象的なのは、人間の顔…、より正確には、顔と手。腕や肩は描かずとも、手だけは描く、克明に。

それにしても、この思わせぶりな手は何なのでしょうか。似たような手を描く自画像はほかにもいくつかある。そして、写真機の前でポーズを取るときも…、


いつも手を見せたがるシーレ。画家の何らかの自己主張なのか。(どなたか、ご教示くださればと。)

つづいては、シーレの展示室の目玉的な位置にあったアルトゥール・レスラーの肖像。一転して明るい無地のバック。その前に、それなりに様式化された人体。それでも気になるのは、やはり、手。


「アルトゥール・レスラー」(1910)

自分を描いても、他人を描いても、シーレはつねに手にこだわる。(こちらは、裸体プラス、手。)西洋絵画の伝統的な手の表現(たとえばクリムトにおいてのような)とははっきり異なる手。リアリズムなのか、象徴なのか、あるいは単なる手フェチか。

次は、より表現主義的な、すばらしい「聖家族」。
今回の展示にはない。結局シーレの妻になることはないヴァリーのお腹には、このとき想像上の胎児が描かれている。


「聖家族」(1913)

それにしても驚くべきは、三対の手!胎児までもが、両手をこちらにかざすことによって、その存在を主張している。

2009年9月20日日曜日

シーレを見る、ブリヂストン美術館に寄る


シーレ、『ひまわり』
(1909)
ウィーン・ミュージアム(旧ウィーン市立歴史博物館)所蔵の絵画を展示する、日本橋高島屋アートギャラリーの「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」に行く。

クリムトに期待して行くとちょっと失望するかも。油彩は『パラス・アテナ』、『』ほか4点。


シーレ、『意地悪女』(1910)
小規模ながらすばらしいのはシーレの展示。この人の鉛筆やチョークの線を間近に見られるのは至福。クリムトの線が工房の線だとすると、シーレの場合は、エゴでこりこりの芸術家の線。私としては、今回はシーレに軍配。ちょっとしたサインや日付の配置まで含めて、本当にデザイン感覚の塊のような画家だなと思った。絵はがき大の小さなデッサンまで含めて、見ていてとにかく楽しい。油彩の傑作は、右の『ひまわり』。ところどころで出てくるグワッシュの使い方も面白かった(左『意地悪女』)。

お昼ごはんのあと、ブリヂストン美術館へはしご。山田登世子氏の講座「誰も知らない印象派—セーヌからノルマンディまで」を拝聴。これがまたかなりすごかった。ルノワールの『舟遊びの昼食』、『ブージヴァルのダンス』、モネの『ラ・グルヌイエール』などパリ郊外セーヌ沿岸にまつわる多数の印象派絵画を引きながら、話はいつしか思いもつかぬ方向へ…。たぶんこれから活字にするおつもりのはずで、こういうところでネタばれはまずいでしょう。とにかく、思いがけず面白い話が聞けてしまったのでした。