2008年1月30日水曜日

アウラ雑感

ベンヤミンの「アウラ」の概念にについて個人的に思うことを、箇条書きで。

  • アウラとその崩壊、礼拝的価値と展示的価値という二項対立を単純に進化論的にとらえて、それぞれの第二項を、近代という歴史的段階、つまり複製技術の時代の特徴と考えることは、じつはできない。
  • 「芸術作品が唯一無二であることは、それが伝統の関連のなかへ埋めこまれていることにほかならない。とはいえ、この伝統自体はまったく生きものであって、ことのほか変わりやすい。〔…〕芸術作品を伝統の関連のなかへ埋めこむ根源的なしかたは、礼拝という表現をとったわけである。〔…〕ところで、芸術作品のアウラ的な在りかたが、このようにその儀式的機能と切っても切れないものであることは、決定的に重要な意味をもっている。いいかえると、『真正の』芸術作品の独自の価値は、つねに儀式のうちにその基礎を置いている。」(ヴァルター・ベンヤミン、「複製技術の時代の芸術作品」、『ボードレール 他五編』所収、岩波文庫、7071頁)
  • この一節を読む限り、アウラの問題とは作品を受容する社会制度と深く結びついており、単なる生産局面での物理的条件(複製可能性、あるいは写真の感光時間の長短、云々)に議論を限定することはできないということになる。
  • タブロー、ミサ、大聖堂が発達した中世においてすでに、儀式は礼拝性と展示性の両方を分かちがたく含んでいた。展示性が抑圧されるのは、むしろ「世俗的な美の礼拝」が形成されるルネッサンス以降。(芸術作品はこのとき、教会から宮廷へ移動する。)展示的パラダイムの端緒は、だから中世に求めることができる。中世文明はひとつの全体=身体として、日々の生活の中でキリスト教の伝統を受容していた。(ジャック・ル=ゴフ、『中世とは何か』、藤原書店、2005年、「第4章 ある文明が形を成す」参照。)
  • 写真は少なくとも、バルト風に言うなら、「まさにそこに被写体が存在したこと」を語ってはいる。被写体と写真との関係は、つねに一回的なもの。このまなざしの一回性が独自の儀式的機能とむすびついたとき、写真的アウラが生まれうる。それが組みこまれるべき「伝統の関連」は、このとき当然、従来芸術作品がもっていたものと比べて、新たなもの、より個人的なものに変化する。いずれにせよ、写真の発達とアウラの崩壊を即座に結びつけるのは正しくない。パースに依拠する写真理論家フィリップ・デュボワによれば、写真における現存と不在の弁証法は、「どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象」というアウラの定義そのものということになる。
  • そもそもベンヤミンはアウラの崩壊だけを語ったのではない。因習的な肖像写真家やピクトリアリストによるアウラの捏造、映画に礼拝的価値を読みこもうとする批評家、スターの人格を商品化する映画資本についても語っている。つまりここでもまた、その真正性はともかくとして、複製技術の時代においてなおアウラは健在ということ。今日でも、美術館の作品は以前にもまして礼拝性をまとっている。それらは複製のオリジナルとして、新たな神秘化をこうむる。(ジョン・バージャー、『イメージ 視覚とメディア』、パルコ、1986年。)
  • それでもなお、「複製技術時代の芸術作品において滅びてゆくものは作品のアウラである、ということができる」とすれば、それはなぜか。「複製を大量生産することによってこの技術は、作品の一回限りの出現の代わりに、大量の出現をもたらす。そして受け手がそのつどの状況の中で作品に近づくことによって、複製された作品にアクチュアリティーを付与する。伝えられてきた作品は、この二つの過程をつうじて、激しく揺さぶられる。」(「複製技術…」、67頁)
  • 複製はオリジナルと同等の資格をもつものとして消費され、個人の中で、伝統から切り離され、再文脈化されうる。(ただし、つねにではない。)複製の問題はだから、おもに芸術の受容形態にまつわる問題であり、文学において受容論が提出した問題に関わっている。ジョン・バージャーによれば、複製の政治的・営利的利用が隠蔽し、否定しているもの、「複製の存在により可能になるもの」を解き放つことこそが重要なのだということになる(『イメージ』、38~44頁)。しかし、ベンヤミンが言いたいことは、たぶんそういうことではない。
  • 「シュルレアリスム」の終わりに出てくる「身体空間」、「あのイメージ空間、世俗的啓示のおかげで私たちが住みつくことのできる空間」(『ベンヤミン・コレクションI』、ちくま学芸文庫、518頁)、ベンヤミンが革命的芸術に期待していたのは、おそらくこのような、伝統的儀式に代わる集団的表象受容の新たな形態を実現すること。社会が表象を受容するひとつの身体であるべきだというのは、ル=ゴフ的な観点から言うと、じつは中世のパラダイムの延長そのものということになるだろう。

2008年1月28日月曜日

来々軒の一夜

昨日は一日外にいた。

ローラさん、ブリジットさんとの10時半からの授業。ら・わ行、1、2課の復習。4課「曜日」の導入をしながら、途中でまだ3課を終えていなかったことに気づく。ま、なんとかごまかせた。

13時、クロディーヌさん。拗音、4、5課の復習。6課の導入。だいぶ慣れてきたみたい。

16時、ジェレミー君。新JBP2の13、14課。

19時半にピラミッドで待ち合わせて、ひろこさん、ファビエンヌさん、イチエさん、ひろしさんと来々軒で食事。そのあと、カフェ・ロワイヤル。

2008年1月25日金曜日

説明すること、理解すること

Louis Quéré, La sociologie à l’épreuve de l’herméneutique, 1999という本の要約があったので、読んでみた。解釈学は社会学のモデルたりうるかという問題を論じた本。最後は、エスノメソドロジーの話になる。要約のほうは、教授資格試験(アグレガシオン)を受ける学生の便宜のためにENSの教師(?)が作ったものらしく、これだけでも分量はけっこうある。

ディルタイは、自然科学と精神科学の区別を試みる際、前者に「説明」、後者に「理解」という語を割り当てた。人間の行動の意味は「理解」を経由した内観によってしか把握しえない。このような「理解」にいたる方途としてディルタイが提示するのが、解釈学である。これが基本的な前提。(この年の社会科学の教授資格試験のテーマは、「説明すること、理解すること」というものだったのだそうで。)

ディルタイから始まって、一方には、ハイデッガー、ガダマーの哲学的な流れがあり、もう一方には、ヴェーバー、ハーバーマスらの社会学的な流れがある、と。両者に共通するのは、解釈から独立した現実の存在を認める客観主義に対する批判、ということになる。このような思想史的な背景は、ハーバーマス・ガダマー論争を理解するうえで、当然大事。

いちばんおもしろかったのは、
アーペルの次の主張。人がものごとを因果論的に説明しうるという事実のうちにはすでに、一般的法則からの演繹モデルでは説明がつかない、ある人間的な能力の存在が前提されている。これはパースの言う「アブダクション」(「仮説的推論、仮説形成」)を指しているのだろうと思われる。このような経路を通じて、「説明」の復権がなされる。ハーバーマスが、ガダマー解釈学を批判して、「理解」はときには因果論的説明の助けを必要とする場合があると言うのも、おそらくこのような文脈での話。

プルーストにおける、「想像力」に対する「知性」の復権の話と似ていますよね。似ているんです、はい。

2008年1月24日木曜日

解釈学な日々

あ、日付変わってもうた。

昨日は8時半起床。コルベイユへ。

ジョルジアさんの友人へのメールを代筆して送る。そうこうしているうちに、娘さんが帰ってくる時間だからといって、今日は切り上げ。こんな風にして授業(?)が終わることもけっこう多い。

ボブールの図書館へ。もはや行列はない。Johann Michel,
Paul Ricoeur - une philosophie de l'agir humain, 2006から、イデオロギー批判とハーバーマス・ガダマー論争に関するページを、Espritのリクール特集号(juillet-août 1988)からPaul Ricoeur, "L'identité narrative"を、Archives de Philosophie, janvier-mars 2000の、D. Jervolino, "Herméneutique et traduction"を、それぞれコピーした。

リクールの"La fonction herméneutique de la distanciation"を読んで以来いろいろ疑問がわいてきて、今それについて読んでいる。

2008年1月22日火曜日

今日わかったこと

昨晩は4時半ごろまで眠れず。しかたなく、寝床でRobert Kahnを少し読んだりした。

朝起きたら8時半過ぎ。ENSでのRobert Kahnの講演へ。15分遅刻。ベンヤミンにおけるプルースト受容についての本を書いたKahnさんは、お年を召したかたでした。意外。

リクールを読もうと、リュクサンブール公園前「ロスタン」へ。"Herméneutique et critique des idéologies"のコピーをパラパラするが、どうもおかしい。昨日読んだ記事と内容が符合しない。インターネット・カフェに行って、Deramaixさんの記事を確認。案の定、これは"Herméneutique..."の要約などではなく、むしろ同じDu texte à l'actionの"La tâche de l'herméneutique"(1975)、"La fonction herméneutique de la distanciation"(1975)を詳しく紹介していることに気づく。

昼食。ジベールで本のチェック、少々立ち読み。

あいかわらず、サント=ジュヌヴィエーヴの前には行列。地下鉄でパリ8大学まで行く。図書館でDu texte à l'actionから、"De l'interprétation"と"La fonction herméneutique de la distanciation"をコピー。さらに、Gérard Cogez, Le Temps retrouvé de Marcel Proust, 2005の中の必要になりそうなページ、Jacques Chabot, L'Autre et le moi chez Proust, 1999の序文と結論、Pierre Bayard, "Lire Freud avec Proust"(A. Bauduin et F. Coblence, dir., Marcel Proust - visiteur des Psychanalystes, 2003)をそれぞれコピー。

読むほうは、あまりはかどらず。

あとは、昨日わかったこと。ル=ゴフのLa Civilisation de l'Occident médiéval(1964)が、ついに去年の暮れに和訳で出版されたようですね(桐村泰次訳、『中世西欧文明』、論創社) 。

2008年1月21日月曜日

ハーバーマス、リクールの「メタ解釈学」

ブリュッセル在住のPatrice Deramaixなる人物がネットで公開しているテキスト"Herméneutique et émancipation"(1993)を読む。これも、ハーバーマス・ガダマー論争についての話。こちらはさらに、ガダマーの反批判(1967)の後に出たハーバーマス側からの反反批判(?)、La Logique des sciences sociales所収の"La prétention à l'universalité de l'herméneutique"(1970)にも触れている。ここでハーバーマスはフロイトに言及しながら、歪曲されたコミュニケーションの正常化のモデルを精神分析における治療過程に求め、この「非解釈学的理解形態」の中に「メタ解釈学」の姿を見る、というような話らしい。Deramaixさんはまた、リクールがガダマーとハーバーマスの両者の立場を調停する目的で書いた"Herméneutique et critique des idéologies"(1973)も詳しく紹介している。リクールは、ハーバーマスのイデオロギー批判の重要性を認めつつ、言語行為論から想を得た受容理論を基礎に独自の(メタ)解釈学を構想する、云々。このリクールの論文は『時間と物語』(1983~85)より前に書かれたのだけれど、『時間と物語』の受容論を扱った箇所よりも(要旨を読んだだけでも)ずっと面白い気がする。不思議。

明日はENSの講演だ。さっさと寝よう。

2008年1月20日日曜日

ベンヤミンふたたび

八時起床。土曜日恒例の死のロードへ。

と思ったら、駅へ向かう途中で聞いた携帯の留守電に、昨日の日付のローラさんからのメッセージ。風邪でダウンとのこと。昨日は一日携帯のスイッチを入れていなかったのでした。こちらから連絡して、キャンセルを確認。

予定を変更して、ボブールの図書館へ。さっそく昨日チェックした解釈学関連文献をコピー、と思いきや、試験前の学生が長蛇の列。サント・ジュヌヴィエーヴにも行ってみるが、ここも同じ。午前中とはいえ、試験前はだめだね、やっぱり。

あきらめて、リュクサンブール公園前のクイックでコーヒーを啜りつつ読書。ベンヤミン「複製技術」をあらためて読む。そのあと、残り2コマのコピー。

13時、クロディーヌさん。半濁音、促音、長音。「これ・それ・あれ」。決算前の時期で仕事が極端に忙しく、お疲れ気味とのことで、授業は一時間で切り上げ。空いた時間を利用して、リヨン駅のプリンター・ショップへ。プリンター・コードの受け取り。

16時、ジェレミー君。仮定の「~と」、「~ば~ほど」、「~たら」を使った会話の聴解練習など。ジェレミー君は最近、インターネットで日本人の女の子のペンフレンドを見つけたらしい。若いのにやるね。

夕食後、ふたたびボブールへ。Ricoeur, "Herméneutique et critique des idéologies"と、Habermas, "La logique des sciences sociales"のガダマー解釈学に関するページ、さらに、Habermas, Connaissance et intérêtの"Postface"をコピーDEA論文のあと古本屋に売ってしまった(馬鹿)、Robert Kahn, Images, Passages : Marcel Proust et Walter Benjaminの必要な箇所を、読み返すためにコピージェレミー君のために、Japanese for Busy Peopleの第20課をコピー。

どういう取り合わせだ、これは。

Bulletin Marcel Proustの2006年号をパラパラしていたら、アニック・ブイヤゲがGérard Cogez, Le Temps retrouvé de Marcel Proust, 2005なる本を書評しているのに気づいた。丸ごと一冊、『見出された時』の解説本らしい。あったんだね、こんな本…。

2008年1月19日土曜日

ハーバーマス・ガダマー論争

Jean-Marc Ferry, Habermas : l'éthique de la communication, 1987の「ハーバーマス・ガダマー論争」に関する章、読了。引き続き、この問題に関してインターネットで入手できた情報を読み進める。

武田朋久、「ハーバーマス方法論における解釈学的アプローチ」(創価大学紀要、2003)、再読。「社会科学の論理によせて」(1967)に見られる「ハーバーマス方法論における解釈学の批判的摂取」を跡づけながら、ハーバーマスにとってのガダマー解釈学の問題点を明らかにし、さらに、ガダマーの『真理と方法』の基本的立場、 「修辞学、解釈学、イデオロギー批判」(1967)で展開されたハーバーマスへの反批判を紹介する。わかりやすい。

解釈学関連文献についての基本知識がないのでかなり混乱し、フランス語版テキストの入手方法もわからず困っていた(Jean-Marc Ferryの本は古く、ドイツ語版を参照している)ところ、モントリオール大学哲学部の2007年度授業シラバス「解釈学II」(基本文献リストつき)が見つかった。現時点における問題の所在も、なんとなく見えてくる。

この道、ここまで入り込んでしまったからには、せっかくだからもうちょっと先まで進んでみようか。深入りする時間はもうないが、それでも確実に面白いことにはなりそうだから。