2008年1月25日金曜日

説明すること、理解すること

Louis Quéré, La sociologie à l’épreuve de l’herméneutique, 1999という本の要約があったので、読んでみた。解釈学は社会学のモデルたりうるかという問題を論じた本。最後は、エスノメソドロジーの話になる。要約のほうは、教授資格試験(アグレガシオン)を受ける学生の便宜のためにENSの教師(?)が作ったものらしく、これだけでも分量はけっこうある。

ディルタイは、自然科学と精神科学の区別を試みる際、前者に「説明」、後者に「理解」という語を割り当てた。人間の行動の意味は「理解」を経由した内観によってしか把握しえない。このような「理解」にいたる方途としてディルタイが提示するのが、解釈学である。これが基本的な前提。(この年の社会科学の教授資格試験のテーマは、「説明すること、理解すること」というものだったのだそうで。)

ディルタイから始まって、一方には、ハイデッガー、ガダマーの哲学的な流れがあり、もう一方には、ヴェーバー、ハーバーマスらの社会学的な流れがある、と。両者に共通するのは、解釈から独立した現実の存在を認める客観主義に対する批判、ということになる。このような思想史的な背景は、ハーバーマス・ガダマー論争を理解するうえで、当然大事。

いちばんおもしろかったのは、
アーペルの次の主張。人がものごとを因果論的に説明しうるという事実のうちにはすでに、一般的法則からの演繹モデルでは説明がつかない、ある人間的な能力の存在が前提されている。これはパースの言う「アブダクション」(「仮説的推論、仮説形成」)を指しているのだろうと思われる。このような経路を通じて、「説明」の復権がなされる。ハーバーマスが、ガダマー解釈学を批判して、「理解」はときには因果論的説明の助けを必要とする場合があると言うのも、おそらくこのような文脈での話。

プルーストにおける、「想像力」に対する「知性」の復権の話と似ていますよね。似ているんです、はい。

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