「自画像」(1911)
今回の展覧会のチラシにも使われている「自画像」。自己の表象、多重人格のテーマなど、内面的な分析はさておき、画面全体の構成が面白い。クリムトについてもすでに言えることだが、人間の顔以外の部分を装飾平面と化した背景に溶け込ませる、大胆な様式化。はっきりと具象的なのは、人間の顔…、より正確には、顔と手。腕や肩は描かずとも、手だけは描く、克明に。
それにしても、この思わせぶりな手は何なのでしょうか。似たような手を描く自画像はほかにもいくつかある。そして、写真機の前でポーズを取るときも…、
それにしても、この思わせぶりな手は何なのでしょうか。似たような手を描く自画像はほかにもいくつかある。そして、写真機の前でポーズを取るときも…、
いつも手を見せたがるシーレ。画家の何らかの自己主張なのか。(どなたか、ご教示くださればと。)
つづいては、シーレの展示室の目玉的な位置にあったアルトゥール・レスラーの肖像。一転して明るい無地のバック。その前に、それなりに様式化された人体。それでも気になるのは、やはり、手。
つづいては、シーレの展示室の目玉的な位置にあったアルトゥール・レスラーの肖像。一転して明るい無地のバック。その前に、それなりに様式化された人体。それでも気になるのは、やはり、手。
「アルトゥール・レスラー」(1910)
自分を描いても、他人を描いても、シーレはつねに手にこだわる。(こちらは、裸体プラス、手。)西洋絵画の伝統的な手の表現(たとえばクリムトにおいてのような)とははっきり異なる手。リアリズムなのか、象徴なのか、あるいは単なる手フェチか。
次は、より表現主義的な、すばらしい「聖家族」。今回の展示にはない。結局シーレの妻になることはないヴァリーのお腹には、このとき想像上の胎児が描かれている。
次は、より表現主義的な、すばらしい「聖家族」。今回の展示にはない。結局シーレの妻になることはないヴァリーのお腹には、このとき想像上の胎児が描かれている。
「聖家族」(1913)
それにしても驚くべきは、三対の手!胎児までもが、両手をこちらにかざすことによって、その存在を主張している。
0 件のコメント:
コメントを投稿